子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

「ホームレス」という言葉と伝えることと。

普段、無料でcakesを読んでいる。一銭も課金せずにネット情報を得ようとしている不届き者なので有料(優良)読者ではないけど、cakesを読んで5年ちかく経つ気がする。

それくらい、よく読んでいた。その頃からの連載で読んでいるのは武田砂鉄さん。

彼の存在を知ったのもcakesだったと思う。

 

まあ、そんな中途半端な読者なのでもちろんこの記事も寝ながら斜め読みしていた。

cakes.muふーん、としか思わなかった。cakesの記事はだいたいが、ふーん、へー、ほぉ〜という感嘆詞が思い浮かんで、考えさせられたり教えられたり、疑問に思ったりといろんなものを心に残してくれるので好きで読んでいる。

今回の記事も「新しい連載が始まったんだな」くらいの淡い認識だった。

 

炎上してるなんて知りもしなかった。

で、批判的かつ建設的なコメントを読んでなるほど私も鈍い感覚の持ち主なんだと改めて思った。

そして、ふと記者時代の自分のことを思い出していた。

 

あの頃、まだ20代後半で今よりもだいぶ若かった私は、出版部をへて新聞部へ。新聞記者1年目で、その冬に大きな連載を急に任せてもらえて取り組んだのがホームレスの取材だった。

「ホームレス」という言葉が彼らの表現するのに良いのか?という問いから始まって、状態を指すなら「路上の生活者」か?とかを編集長と話しながら初めての連載準備を進めていた。

 

取材相手も闇雲に選ぶのではなく、私も紹介で会う約束をして話を聞きにいった。

だけど、私の場合はメディアの看板も持っていたから、取材の意図も明確で今回の記者ご夫妻とは全く異なる。

新聞の企画として、ある程度伝えたいことというか切り口というのも事前に準備して取材を進めていた(ような気がしている)。

 

10年以上も昔のことだから、今とは時代も違うけど、初めて取材をした人に聞いたのは、路上で生活するということに行き着くまでの苦労・悩みが中心だった。

その後も取材を通してたくさんの話を聞いたし、朝早い方の取材は一仕事終えた朝の6時半に上野公園で待ち合わせして、マックで話聞いたなぁ〜とか思い出す。

いろんな背景の人がいた。

東京中の人に取材をしたわけではないから、今もって全容は掴めない。取材を進めるほどに、話がまともに聞ける人もごくわずかだということを知った。きっと彼らもそこのあたりは3年も取材していればよく知っているだろうと思う。

 

私の書いたあの記事はどう受け止めれてたんだろう??とか今更に思い出したりしていた。

 

取材者としての興味の出発点て、意外と大事だなと今回の批判コメントなどを読んで考えてしまった。

もっと正確に言えば興味を持った時点からの自己の掘り下げ方というのだろうか。

 

例えば私がカウンセラーに興味を持ったこと。

社会福祉に興味を持ったこと。

きっかけとなる出来事や事象は社会の中に、自分の中にあったけど、あえていくつもの事象や関心の中から選んだテーマというのは究極のところ自分自身に向かう問いであり、要は自分の中に潜む問題、思いと結びついている。

その辺りの掘り下げが明らかになっていれば読者も違った反応があったのかなと思ったり。

ホームレスを取材するということ自体に違和感はなく、彼らが捉えたものが「エッセンシャルな人の生き方」だったとしてその彼らの思いに嘘偽りもないのだろうし、それがやいのやいのと言われるのもちょっと違和感を覚える。

ただ、一方でやっぱりキラキラだけが全てではない世界の中で、どのように私たちはこの現実社会と向き合うのか。

彼らが満足していればいいって話でもなく、単純なようで複雑であり、ライターは鳥俯瞰的に見渡していく視線も......と思った次第だった。