子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

【読書録】妄信

朝日新聞社の記者が編纂した、相模原障害者施設殺傷事件に関する本を読んだ。

テーマはとても重く、以前からこの本は知っていたけど手に取ることができずにいた。

ふと、読もうと思って手に取った。

何度もテレビや新聞で知っているはずのニュース、事件だけども記者たちの迷いや苦悩まではその当時知らなくて取材の裏側を本を通して知ることができた。

植松被告は繰り返し、「障害者は生きている意味がない」「重度障害者は安楽死すべき」といった発言をして、日々そうした想いに囚われていた。

それは一体何を意味するんだろう。

そしてその発言に必ずしもNOと言えない、むしろ同調する人すらSNSにいるという。それは一体何を指しているのだろう。

 

この本では特に「匿名報道」と「実名報道」にも光が当てられていたけれど、その報道のあり方と植松被告の思想とそれを支持する人たちの存在とが、どこか繋がっているようにも思える。

じゃあ、私は?私はどう思っているのだろうか。

 

などなど読みながらいくつもの疑問や思考が駆け巡っていた。

 

亡くなった人と生きている人とでは異なるのかもしれないけど、昨日まで元気に生きてた人が人に命を奪われる形で亡くなったときに、匿名報道されるのはその人の生きてきた証というか像が奪われる感じがする。

本の中で記者のそうした思いが伝わってきて、それもまた考えさせられた。

名前ってすごく大事なものなんだと気付かされた。

 

私も日々、何十回となく息子や娘の名前を呼ぶ。

焦って呼ぶ時もあれば可愛いなと思って、ゆったりとした気持ちで呼ぶこともあるし、朝起こす時も探す時も、いつも名前で呼びかける。

名前っていうのは私が「あなた」に声をかける最初の言葉。だから、そこには人との関係性とかその人の生きている日々がものすごく詰まっている。

 

名前がとても大事なものだから、守りたい。それは記者も遺族もきっと同じなんだろうな。

SNSで今も、今日も「障害者と健常者は同じ環境にいるべきではない」という論調が幅を利かせている。

本当にそうなのだろうか。

 

勉強をする上で、静かに勉強したい人がそれを邪魔されるのは良くないし、同じクラスで学ぶことなんてできっこない。「ヤングケアラー」を増やすつもりか。

みたいな意見もつい最近見かけた。

学びの保証は障害があってもなくてもあるべきだと思うけど、緩やかに同じ学校とか交われることが自然にあったら良いのではないか、と個人的には思う。

 

本当は自分たちのすぐそばにいろんな人がいるのに、わざわざ囲ってすれ違わないように、環境をキッパリ分けてしまう。それがすごく正しいことのように語る人がいる。

植松被告のような思想を後押しする環境が、この社会の中に醸成されているのは間違いない。

考えさせられたことはあまりにも多くて書ききれない。

この社会で起きた現実なのに、残念ながらこの後に大きく社会が変わったかと言われればそうでもない。

そのことにも打ちのめされながら、障害とは、人とは?を考えている。

妄信 相模原障害者殺傷事件