子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

思考と言葉

自分が話す言葉がとてもボキャ貧(死語)だなと感じる。仕事をしていても、子どもに対しても。書き言葉は昔は多少得意だったけどそれも高校生レベルで止まっている。

子どもの宿題に「せんせいあのね」があり、毎週末、最近体験した思い出を書くというものがある。設定も内容もフリー。とにかく「せんせいあのね」って書いていくやつ。あれ、私が子どもの頃もあったけど、毎週末ではなかったなと思う。

毎週末書くことで、自分の思い・体験を言葉に変換させていくから結構良いのではないかと思う。幸いにも娘の週末は私につきあわされて忙しく、ヨーカドーに行ったり、弟とシルバニアで遊んだり、英語の勉強をしたり...。

本を読むことも、人と話し合うことも、自分の考えを言葉にしていくことも、どれもすごく大事なことだ。

ただ、本も話し合いも内容やテーマも大事。

最近の政治を見ていると、とくにここ10年近く、日本の政治家は自分の言葉で語れる人が上に立たなくなっている。

「お答えは控える」(させていただく、という誤った日本語を多用している)と言い続けて話すこと、語ることを拒否している。

政治家の「くせに」そんなこともできないのか、有権者に対して説明しないという拒否権があるとでも思っているのか、と毎度私は怒り心頭なのだけど、正誤を問うているのではなく「あなたはどう考えますか」という一政治家としての考えを聞いているだけなのに。

話し合いのステージにすら立とうとしない人たち。

 

何度も同じことを書いたと思うけど、話し合いで印象深いことの1つに学校の校則についてというのがあった。

ある日、先生が「制服なんて嫌だと思ったら、お前ら生徒会の自治権があるんだから校内の意見をまとめて学校に提言していいんだぞ。学校の校則は自分たちで変えることだってできるんだぞ」と言ったことがあった。

社会の先生だったけど、ホームルームかなんかの時間に私たちがスカートの長さとかセーターはラルフがいいとか、そういうことをたらたら言ってて、言われたような記憶。

学生時代にこういうことを日々、学校の中で教わったり考えてきたかどうかは、社会に出てからの思考に影響があるなぁと思う。

 

私の思考も言葉もまだまだ足りない。だけど、自分の言葉で説明できることや自分の頭で考えることの重要性を仕事をすればするほど痛感しているし、子育てを通しても痛感する。

生きることと直結しているんだなと思う。

 

思考もせず、自らの言葉で語ることもせず、税金を使い続けている政治家を野放しにしている日本人の(私を含め私たちの)思考停止も戒めたい。

けど、このコロナの状況も経済の傾きも増税も、すでに戒められてるか。だけどそう思ってない人もきっと多いんだろうな。

教育って大事。