学習性無力感
学習性無力感ということをここ数年、とても意識させられている。きっかけは子どもの子育てにおける私と子どもの関わり方。
昨日も書いたとおり、子どもは癇癪を起こして服を投げたり食べ物を投げたり、箸やスプーンを投げたりする。手当り次第、とりあえず投げる。特に息子が投げる。
娘は嫌味な言葉を息子に投げて、リベンジされる。
そんなことがカジュアルに家庭内で起こっている。
私はその様子を観察しながら、「危ないから投げないで」「食べ物は命あるもの。粗末にしてはいけない。投げないで」などその時どきで子どもに声をかけながらも、手を極力貸さずに、汚れたらきれいにしてほしいと伝え、壊れたら物は壊れるけど壊すものではないと伝え、片付けをしてもらう。
これもひとつの「学習性無力感」だろうと思う。
子どもの躾において有効に使っている。厳密には上記のようなことはあたらないのかもしれないけど、「どうせ無駄」ということを伝えている点において、乱暴にくくれば似たようなもの。
ただ、本来的な意味での学習性無力感がここ数年の政治ですごく浸透しているなぁと思う。1年を振り返る番組がここ最近多いけれど、菅政権がオリンピックのやるやらで強行突破したのも、期せずしてコロナ感染の爆発を起こしたのも、黒塗りで公文書が公開されたのも、官僚の赤木さんが自死して妻が訴訟裁判を起こしたのに認諾という形で幕引きされてしまったのも、全部今年。
去年も去年でいっぱい、政治に対する「どうせ無理だよね」「期待したほうが間違い」ということが山ほどあった。
昨年に限らない。
ずっとここ10年弱そんな日々だなと思うし、それが当たり前になっている。
自分がうまくいかないことを他者に八つ当たりすることは違うとしても、政治・社会の事柄で「どうせ意味がないんだ」「無駄なんだ」ということを受け入れてしまうことの危険性みたいなことも感じる。
自分が経験することの中で、私(たち)は学んでいくけれど、同時に経験の外にあるものからも、書籍や文化を通して学べるようにしていたい。