心の表現と言葉
聖教新聞のキャッチコピーみたいだな。そういう話じゃない。
そうじゃない。
昨日、吉本ばななの本についてブログに書いた。同時期にたまたま、Twitterを眺めていたらすごく素敵なTweetをされている方がいることを知り、勝手にフォローしている。
「医療従事者が最も大変だ」。私は、そう思っていない。多くの人が苦しい状況を必死に生きている。そう想い、いつも書く。非常時は普段以上に言葉に慎重であるべきだ。言葉は救いにもなるが、突き落としもする。いま崖淵に立つ人に言葉で手を握り、何度でも言いたい。苦しいが、光を信じ共に生きよう。 pic.twitter.com/7wtyyXQv6s
— 道野久人 (@michinohisa) 2021年1月13日
見ず知らずの方なのだけど、選ぶ言葉一つ一つが丁寧で、良い意味で襟を正される気分。
ばななさんの本といい、この方といい、何かを表現するときの言葉が丁寧だしオリジナルだし、素敵だなと思う。
最近、殺伐としていたなぁと自分のことを振り返って反省。とくに年末はコロナ、コロナとすごい重圧と緊張感の毎日だったし、吐きそうになりながら(精神的に)仕事をしていた。ささくれて荒くれてたかも。と思うと、もう少し温かい日差しのような態度や言動をしたいもの。そう思った。
知り合いが、結婚するという。
長年、結婚を夢見ていた。知り合って5年になる彼女は周りの人が結婚するたびに驚くべき言葉で罵って呪っていた(なぜだ!!!)。
ようやくその彼女にも春がきたか!と思ったけど、事はそう単純ではない。
今度は呪い先を婚約者およびその実家に向けている。
誰かを恨んだり呪ったりしないと生きていけないゲームでもやってるのだろうか。と本気で不思議に思ったし、その彼女の呪いというか恨みというか、そういう言葉の数々を、聞けば聞くほど引き出してしまうような気がして返事ができずにいる。
彼女自身が生育歴の中であまりご両親に恵まれていなかったという話は以前に聞いたことがある。そのことと人の幸福を呪うことが密接につながっていると、彼女は自分自身を分析しているけど、どうもそれを断ち切る気はないらしい。
過去の自分を断ち切ることはすごく難しい作業なのだろうと思う。私自身はどうかなと思うけど、過去も含めて自分だと思って生きている。簡単じゃないから彼女は婚約者やその両親がちょっと言ったことに落胆したりキレたりしちゃうんだろう。
でも、心に思うことや口に出すことが怒りと悲しみで塞がれてしまうと、なんだかバランスが悪いんじゃないか?と思う。喜怒哀楽は等分にあるのかもしれないけど、自分の中でどの感情を育てるか?は自分自身にかかっている。
怒りや悲しみが悪いものとは思わないけど、「無理に」成長させる必要はまったくないと思っている。
悲しみも、怒りも自分の中にはあることを自覚しつつ、生活は楽しくありたいし、いろんなことに感謝したり些細なことを喜んだりできたほうが、いい。
小説や描写のすてきな言葉に出会って、表現を大事にしようと思った。