子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

「かわいそう」と思うこと。

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子どもたちに、時々、手が自由に動かない人や歩けない人、目が見えない人がいることの話をする。

動かせない機能もあるけれど、働いている機能を使って、自分たちと大きく変わらない生活を送れる人がいることも含めて、話している。

内部疾患があって、目に見えないけれど生まれつき心臓が弱かったり、腎臓が弱かったり、途中で病気にかかってしまう子どもがいることも。

 

どうしてそうした話をするかというと、保育園や学校など身近にはそうした友達がいないとしても、この街の中で、この国の中で、まだ出会ってない同じ世代の人達の中にはいろいろな体の状態を持っていたり、状況の中を生きている人がいるということを、知っていてほしいなと思っている。だから。

なんで知ってほしいと思っているのか?

知ったところで、子どもも「ふーん」という感じではあるのだろうけども、自分の体も当たり前じゃないし、自分の生活環境も当たり前じゃないし、だからといって他の人が「良い」とか「悪い」とかいうことじゃなく、「いろんな人が、いろんなものを抱えて生きてる」ってことを知っていると、少しだけ想像力を持てるようになるかなという思いがあるから。

 

だけど、子どもにそうした話(病気やけがをした人の話)をすると「かわいそうだね」という。

 

Twitterなどで「病児の子どもをかわいそうに、と言われたくないし、かわいそうかどうか決めるのは本人と親だけ」というのを読むともっともだよな〜と思う。その反面、「病気になっちゃったから入院して治療を頑張ってる子もいるんだよ」という話を聴いたときに、子どもが示す「かわいそうに。早く治ると良いね」という反応は、すごく自然な気もしている。

 

かわいそう、という言葉の中にどんな思いがあるのだろう。

どんな意味で使っているのだろう。

子どもに聞くと、「だって入院しなくちゃいけないんでしょ」って。

とくに短いけど入院したことが何度かある息子にとって、入院=いやなこと。

そのいやなことに耐えなくちゃいけない子がいる=かわいそう。ということらしい。

 

私はその子どもたちの反応を聴きつつ「そう思ってはいけない」とか「そういうふうに思うことは失礼だ」とは言えないでいる。

病気なんて誰もなりたくてならないし、苦しみや痛みが取れて元気になってほしいとすごく思う。

 

「かわいそう」の形容が正しいのかどうかわからないけど、少なくとも「そんなの仕方ないじゃん」とか「だから何?」みたいな反応よりも「そうなんだ。かわいそうに。元気になれるといいよね」というのは、人としての自然な反応なのではないかと個人的には思う。

 

先日、娘が教科書に出ていた「ずうっと、ずっと、大すきだよ」という、飼い犬を亡くした男の子のお話を音読していた。

最初に読んだとき、娘はしくしくと泣いたという。

 

亡くなった犬がかわいそう、男の子がかわいそう。

娘の中に起こった切ない気持ちって、大切にしてほしいなと思う。

「かわいそう」でとどまっていては何も変わらないことも多くあるから「かわいそうなんて同情されたくない」というのももっともだと思いつつ、かわいそうだな、心配だな、みたいな最初の思いがなければその先にも進めない気もする。