インターネットは発展しても世界は分断される
記事タイトルにつけたことよりも、どちらかというと「インターネットが発展したから世界が分断されている」とも言えるかもしれない、と最近思っている。
コロナのこと、眞子さまの結婚相手のこと、原子力発電所の貯水放出のこと...どれをとっても、専門家やジャーナリストや素人があれこれと自分の意見を発している。私もその一人。
インターネットの発展は、一市民の自分が好きなときに好きな言葉で言いたいように全世界に向かって(対象者不明)意見表明ができるようになった。
昔はテレビや新聞、雑誌で言われていることが「なんとなく世間一般の共通認識」だったし、それ以上のことを知りたければ本を読むとか講演を聞くとか、そんな程度で知識を得るのが常套だった。
それが、インターネットのおかげで誰彼関係なく、知りたい情報にはアクセスできるし、その情報をもとに発言もできるし、意見交換もできるようになった。
インターネットがもたらした人々の知識やコミュニケーションの変化はすごく大きいと思う。
個人的にはインターネットの持つ可能性とか、バリアフリーな感じは悪くないと思っているし、こうしてブログにどうでも良いことを吐露できることもまた、恩恵だと感じている。
ただ、自分のSNSもそうだけど「同じような興味関心」と「同じような問題意識」を持ったコミュニティとのゆるやかなつながりがある一方で、「ややずれる人たち」というグループとは交わりようのない、ものすごい断裂を感じてしまう。
意識的に「何だこの人?」と思う人とか「この人普段どんなことに興味あるんだろう?」と思うと、ツイートにさかのぼってみたり、インスタ投稿をさかのぼってみたりするのだけど、びっくりするくらい情報の見え方が違っていることに気付かされる。
たとえば同じコロナ情報でも、どのメディア、どの専門家の意見に基づいて考えを組み立てるかによって180度くらい出す答えが変わってしまう。
忙しかったり、自分の正しさを信じて疑わない人は、きっと自分とややずれる人の意見は目に見えないかもしれないし、自分が正しいと思う考えを強固なものにしていく意見をどんどん集めて(リツイートして)共感を呼んで更に踏み固めていくこともできてしまう。
インターネットがもたらしたものって「誰もが瞬時に必要な情報にアクセスできる公平性」であったり、「対等に全世界の人に繋がれる権利」であったりだと思うけれど、結局使う人間にとって「自分を肯定してくれるぬるま湯」の環境を作り込んでしまうこともできて、それを「世界だ」と思うこともできる。
世界が広がっているようで狭まっているような、そんな危うさもある。
これからも便利に使い続けていきたいけれど、そうしたことに自覚的でありたいし、世界とつながりながら分断が促進されてしまうこの矛盾についても、ネットに身を置きながら観察を深めていきたい。