子離れと趣味。
健康診断の結果はまだ届かず、生検に出した私の組織が悪性か良性かもいまだわからない。いくら院内での健診とはいえ、おそすぎやしないか。
ちなみに私よりも先に受けた先輩の健診結果も届かない。
なので、うっかり長生きする想定をしてしまう。短尺か長尺か、人生はわからないけれど長尺と仮定して。
最近、といいうかここ5年は確実に子ども、仕事、家事が私の三大テーマでほかの事柄が入る余地はない。
好きなテニスも諦めたし、やりたいこととやる必要のあることを日々の中で取捨選択をしている。
その上で「やったほうがより良いだろうしやりたいこと」は少しだけ優先順位を上げている。
コロナが蔓延する前は、子どもを連れての旅行とかもしていたし、都内巡りなんかもしていた。
母子家庭だから...と何の思い出もない、記憶もない、というのは嫌だなと思っていたから。
でも今となっては記憶にあるやなしかで行った旅行も幻並みに貴重だった。
最近では散歩をしたり、読書をしたり、手近で昔から好きだったことをやっている。息子がようやく徒歩移動が苦にならずにできるようになった昨年ころからだけど、最近はようやく図書館も暴れずに過ごせるようになって、好きな本を選んで読んだり借りたりしている。
日常には何の不満もなく、すべてが満ち足りている感じ。
今は。
だけど、3年前にできなかった散歩(階段ありきの散策路とかの)や図書館に出歩けるようになったということは、きっと次の3年では私が行きたいところに子どもはついてこないだろうし、あれ程に付き添いを誰にするかと悩んでいた習い事にも一人で通えるようになるかもしれない。
そう思うと、子どもとべったりな生活もそう長くないような気がしている。
多分、そこでちゃんと私と子どもの距離を見極めていくには私自身の「好きなこと」をもう少し手の中に持っていてもいいのではないか、という気がしてきている。
その手始めだったのか、先日書いた柳美里さんの『飼う人』に触発されたのか、定かではないけれど「今度こそ花を育てよう」という気持ちになっている。
ミモザのことも、大きいけれど(別になにか特別な出会いがあったわけでもない。単に黄色くて小さくてきれいな花というインスピレーション)お金も時間もさほどかけずに、生活の範囲の中でほんの少し、生活の幅を広げて視線をずらして見つめられるもの、としての花。
その昔は、わりと自分のエネルギーが人に向かっていたと思う。今思えばただただ暑苦しい。
最初の出版社ではすごく憧れていた先輩に本当によく付き合ってもらっていた。友達にしろ、職場の人にしろ、「仲良くなりすぎる」という傾向が自分にはあった。あの頃は、それが自分にとっての当たり前だったけれど、それは間違っていたような気がしている。
あんなに他人に対してコンパッションに接していたのに、なんかもうきっと受け取った相手にはものすごくうざかったのではないか、と思う。
情が深すぎる。先輩にはそう言われた。
今は、意味がわかる。
こんなにも思いが溢れやすいのに、どういうわけか子どもにはわりと淡白なのも自分ではよくわからないけれど、この10年でカウンセリングを学んだり、自分なりに考えたりしてきたからかもしれない。そうであれば多少、私も成長っていうものがあると思える。
何でもいいけれど、子どもに対して「かわいい」だけではないシーズンに入っているのも確か。
かわいいっていうのはきっと一生ベースにあるのだけど、その時どきに子どもが親に求めるものというのは、形も質も変えていく。私自身も変化していかなければいけない。
それで、少し早いけれど子どもが成長していく過程の中で私の身の振り方を思って、少し新しい趣味を持とうと思った次第。