過去はたいがい美化される。
昨日書いた大学受験のこととは全然違う話。
先日、Facebookを眺めていた。いっとき、10年くらい前はかなりアクティブに使っていた時期もあったけど、2年位でパタリと使わなくなった。
だけど、なんだかんだと読む専で眺めている。そうすると「People you may know」みたいなのが出てきてAdd Friendのボタンとプロフィール画像が出てくる。
あ、こんな人いたな〜なんて中学時代のギャルたちがそこにいて、「まともに生きてるだろうか、退学させられたあの子は」と見たら、子どももいるみたいで元気そう。興味なかった〜時間の無駄だ〜と思ったけど、最近(って言っても2年前とか)まで中学時代のギャル+まじめグループの子たちが同じ写真に収まってた。
ああ、集まったりしてるんだ〜なんていうのは意外な発見だった。
私の中では、ギャルたちはただ怖くて、性格が悪くて関わりたくない人たちというあの頃の印象からちっとも変わってないし、関わりもまったくないからいじめられたこともいじめたこともなにもないのだけど、集まりたいとか会いたいとか一切ないな〜なんて思った。
自分の中で中高時代はすごく楽しくてよかった思い出になってるのだけど、自分のすぐ近くにいた友達だけがクリアに思い出には描かれていて、周縁部のギャルや要するに友達ではなかった人たちは自分の中にはなかったことになってるんだな、ということにも気づいた。
過去はたいてい美化される。
私の場合は嫌な奴の記憶は嫌なままで美化されてないのだけど、存在ごとぼかしてしまっているようだ。
人の記憶装置はとても優秀。
この「興味ないものをぼかす技」みたいなのはその後のどこの組織においても私の中で発動され続けている。
自分が生きていく術みたいなものなのかもしれない。
まあ、あの頃のギャルたちも人の親。
インターネット時代には知る必要のなかったあれこれも知ることができるんだ、時間の無駄だなと思った次第。