子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

「自己批判」と学び

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牧師の奥田知志氏が代表を務める抱樸によるDaiGoに関するメッセージが発信された。

note.comこの一連の出来事(DaiGoによるヘイトスピーチ)は私の中でまだうまく消化できていない。できるかもわからない。

Twitterなどの短い文章で端的に思いを書き連ねることは私にはできず、かといってブログでなにかまとまった考えを述べるほどには思考がまとまっていない。

だけど一方で、躊躇いもなく葛藤もなく無自覚に差別的な発言をする人を身近にも見てきたし、自分の中にもその感情がないとは思えない。

彼の発言については受け止めきれない自分がいる一方で、抱樸の発信したメッセージの中にある「自己批判と学び」については、非常に深く感じ入るところがあった。

これを読んで最初に思ったのは、「ああ、このことはカウンセラーを学んだときの最初に習ったこと」「社会福祉士で言えば自己覚知かしら」ということ。

 

成長の過程で「自分と他者」という異物との出会いは時に自らの内に拒絶反応をもたらす。自己防衛本能の一つとも言えるし、生存本能とも言えるのかもしれない。大げさに言えば。

ただ、同時にその相容れない他者を受け入れたり、他者を通して自らが救われたり助けられる経験を通して人は人を受け入れたり、人によって安心を得たりもしていく。

幼い頃で言えば養育者がその「安心」であったり「助け」を提供してくれる。

そこで得た安心をもとに他者(公園で遊ぶ同年代の子どもであったり保育所や幼稚園の同じクラスの子であったり)とも関わろうとし、失敗しつつも養育者に助けを求めて安心を得、関わりを学んで少しずつ生きる世界を広げて関係性を広げていく。

 

ある程度はその繰り返しの中で自分の「世界」を守って生きていける。

驚くのはおそらく社会に出た後だろう。そうした積み重ねをした経験のない人も、全く違う価値観や生き方をしている人のことも「遠くに」知る。それが海外に住む誰かであったり、駅に座り込んでいる人だったりするのかもしれない。

自分と直接に接点のなかった人を、私がどのように受け入れていくのか。

そこには自分の中にある、「自己防衛」とそこを克己していく「知」が必要になるのだろうと思う。ここで言いたいのは知識とかではない。どのホームレスが、(または外国籍の人などが)なぜここにいてこうしているのか(していないのか)とかそんなことではなく、自らを脅かす存在ではないことを一歩ちかづいで知るということ。

そのためには、「なぜ自分は怯えているのか」「自らを脅かすと感じているのか」。自分の中にある目に見えない偶像との対峙がキーになるのだろうと思う。

 

偶像というのは、キリスト教的な物の言い方だけどきっとそれが一番しっくり来る。

偶像って自分がつい大事にしてしまうもののこと。

それが一般的に「良い」と思われることであれ、何であれ、偶像って信奉になりかねない。

偏愛しかねない。

DaiGoが握りしめて手放せないものは何かわからない。

 

私はなんだろうと思うと、自分自身のような気がする。元夫に「自分が強い」と言われた。あながち間違ってもいない。

だから、自分の正しさとか、自分の中での「これが大切なんだ」と思うものをなるべく、なるべく突き放して見るようにしている。

それでも自然に自分の偶像へと近づいてしまう。

 

何度でも自己批判を行っていくしか無い。「あれ?こんなに自信満々に思っていること、考えていること。それ本当に良いの?」と。

 

自分の中で疑いがなければ新しい考え、思いを取り込む余地はない。

抱樸のメッセージからは少し離れてしまったけど、私もまた日々の仕事の中で、カウンセラーの学びの中で(今年は更新学習!)内省していきたい。