子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

嫌なことに大小はあるけどない。

痛ましい事件が愛知県で起きた。

被害者児童の未来が突然閉ざされた。この事実をどう受け入れたらいいのか、どう考えたらいいのかと考える。同時に加害児童の、ここに至るまでに起きていたことにも目を留めていきたい。

そう思いつつも、ネットニュースにはあまり大きく取り上げられていない。ニュース記事にはなっているけど、傷があまりにも深いから興味本位で探る人がいないようにという配慮なのかもしれない。

その中で、続報が目に止まった。

news.yahoo.co.jp被害者児童がどういう心情で「箸をすぐ渡さない」ということをやったのかは今はもう知る由もない。

深い思いはなかったかもしれないし、ちょっとした優越感があったのかもしれないし、何ももうわからない。

 

この事件のことを安易に解釈するのは違うだろうと思う。被害者と加害者の間のこととしては何もわからないし、それはどんなに「こういうことがあった」「ああいうことがあった」という事実だけを並べてもきっとわからない。

 

こういうことってされた人にしてみれば一度であろうが複数回であろうがなんと言えない不快感で心がしめつけられる。かといって抗議するには些細なことで、わざわざ抗議するまでもないと思ってしまうようなこと。でも嫌なこと。

 

社会に出てもこういう些細な嫌がらせをする人ってわりといる。

そういうのって意地悪だなと思う。

娘が時々息子にやっている。からかい半分、ストレス解消半分のようで、それを見る度に「そういう意地悪は絶対にやめなさい」ときつめに叱っている。

私が好きじゃないから、というのもある。誰かがうまくできないことを笑って済まそうとすることもものすごく嫌い。

 

加害者生徒が加害者にならずに、被害者生徒が未来を奪われずに人間関係のほつれをととのえるすべはなかったのだろうか。

それを考え、改善していく責務が大人にはある。

ミスチルの櫻井さんがその昔、「タガタメ」を作ったときにニュース23で歌ったことがあった。そのときに自分の子どもが被害者になるだけでなく加害者になることもある。その時どうだろうかということを歌にした、みたいなことを言っていた気がする。違ったかもしれない。

でも、この歌はそういう感じの歌。

 

娘や息子を見ていて、いつ彼らが被害者になったり加害者になったりするかわからないと思う。その被害と加害は時に表裏一体でもある。親としてはただただ、抱きしめて手を取って、愛していく。それ以外にない。

 

命が失われるって究極につらい。愛することも、抱きしめることも、手を取ることもできない。そうなる前に、その選択をとらないで解決できなかったものか。もしも我が子に同じようなことが起きたら...考えは尽きない。