子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

旧姓と新姓

特段に深い理由もなく、私も子どもたちと共に元夫の姓を名乗っている。名乗っているというか戸籍上そうなっている。もう私は旧姓で生きていない。

元夫への愛着もそこまでないものの、何かと「便利」で使っている。まず響きがいい。誰が聞いてもすぐに耳に馴染む。

旧姓は聞き返されたり間違われることがあった。

私の下の名前との語呂もいい。

 

音的な響きの良さはとても気に入っている。旧姓で呼ばれてももはや他人と思うほどに今の名前に馴染んでしまっている。もう10年になるか。この姓になって。

 

手続きが面倒くさいというのも当然あったし、子どもたちは夫の姓で保育園も通っているのに途中で変わるのもなぁ。かといって私だけ旧姓なのもなぁ。

みたいな自分なりのあれこれもあった。

 

だけど最近思うのは「結婚して離婚した」という状態は、「結婚する前に戻ったわけではない」ということ。子どもがいなかったら違うのだろうけど、子どもがいるから余計にそう感じている。

結婚する前に戻ったというかは、先に進んだ、と。だから結婚して離婚したけどなんとなく人生においてはターニングポイントを迎えて前に進んだ。くらいのイメージを持っている。

 

そう思うと、結婚して離婚した時に私が背負っていくものとしては結婚して変えた姓も含まれているように思える。結婚前の姓に戻したところで人生が戻るわけではないし。

画数は多いから、もう少しいい名前あるかなぁなんて思うけど、自分なりに今の名前に馴染んでいるのはなんだか不思議だし、姓に対するこのこだわりのなさは不思議に思う。

だけど、例えば子どもを保育園に預けるということも「胸を引き裂かれる思い」や「後ろめたい思い」みたいなのも一切なくてさっぱりと預けられている。

これもまた、自分の中のこだわりのなさで、どうしてそういう心境なのか自分でも全然わからない。

子どもは可愛いのだけど、そのことと子どもを預ける罪悪感は結びつかないというか。

この先もこの名前で生きていくんだろうなと思うし、友人に言わせると私と結婚する人が現れるとすれば「海外の人だろう」とのこと。

そういう出会いも気持ちも全くないけど、もしもそうなる未来があるとすれば「故郷みたいな国が増えるの、ラッキー」くらいの気持ちだろうな。

 

いろんなことがさっぱりしていて、軽々しく生きている。