子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

大きな壁はすぐ目の前に。

アベプラというネット番組で、ひろゆき氏のツイートが問題になってひと番組作られていた。

少し見てみたのだけど、なんかもう「間違ってるのはひろゆきなんだから、それでおしまい」じゃないか?ということだった。

座り込みが24時間じゃないと座り込みじゃないとか、辞書のどこにも(少なくとも私の調べた中で)書いてないし、勝手にそう思い込んだだけなのにそれで引っ込みがつかなくなっていて、恐ろしい。

なんか、本当に知らないのかな。辺野古の座り込みはトラックが入るのを阻止する時間に、その目的でやってるって。

そんなことも知らない人、いるのかな。

全然、座り込みの誇張とか思わないし、「多くの人」とか勝手に括っていく話し方って暴力的ですらあって、何度も息を飲んでしまう。

 

なんなんだろうこの人。

この人がメディアに出てくるのって一体なんなんだろう。多分強いものの言い方を好む人がいるからなんだろうな。

 

だけど、暴力的に思う。

 

聞くに耐えず、途中で聞くのをやめてしまった。

また、別のチャンネルでは沖縄の人の方言や話し方に対して「標準語が話せない」とか侮辱的な物言いをしていた。

 

同じことを関西の人に言うのかな。

日本中が方言だらけの時代もあったこととか、それが明治の教育の中で損なわれていって、壊されていって僅かに残った方言がいかに希少かということなど考えもしないのだろう。

 

個人的には沖縄の方言を話したい、学びたいと心熱くしていた時期もあったからとても好きなのでそれを批判されてことへの不快感も強いのだけど、苦手な方言があったとしても「標準語が下手」みたいな発想をしたことすらない。どうしてそういう思考になるんだろうかと思う。

 

でもこうして「僕ら」と「あなたたち」みたいに対立構造の中で話をしていくのがとてもお好きなのだろう。こういうものの言い方って結構どこにでもいる。

収入の多い少ないで分ける人、病気の有無で分ける人、結婚未婚で区切る人、私たちの間にある分け目なんて切ろうと思えば無限にあるし、いくらでも分けていける。

だけど分けることの無意味さみたいなことを感じないのだろうか。

 

沖縄の地で抗議活動をしている人が私の知り合いにもいて、私も関心と思いを寄せている。私の中で隔たりも分け目もない。

いろんなことが地平でつながっているんだと思っている(沖縄が海の向こうとかそういう話ではなく、見据えている方向性とか考えとか)。

分断を好む人たちの前で、どうやって連帯を伝えていくとよいのだろう。

私が分断を好まないように、もしかしたら連帯を好まないのかもしれない。

だから世界はいつまで経っても争いがなくならないんだろう。

 

子どもたちには、自然や命を守り、愛する人になってほしいと心底願う。もしもそういう心を育んでいけたら、誰かが生きている文化や風土や暮らしに対して今日きたばかりでケチなどつけられようもないのだから。

沖縄への差別問題はひろゆき氏を通して明るみになったけど、きっとあちこちにすぐそばにあって、つないでいたはずの手を離してしまうようなあっけない分裂や分け目がいっぱいあるんだろうなと思う。

自分の中にもないか、いつも点検していきたいし、子どもたちをますます守っていかなくちゃと思う。