子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

人生のお勉強

この仕事(病院でソーシャルワーカー)をしているといろんな家族に出会う。

私が出会っているのは患者さん。そして同時に家族。

今まで家族のことなど深く考えたことがなかった。どちらかというと「私は私。母は母、父は父、姉は姉」。そう考えていた。

結婚して子どもが産まれてからもその思いは大きく変わらず、生後8ヶ月で娘が保育園に行くことになった時も「これで娘は私と母子同一的な時間から解放されて娘の時間を、人生を社会の中で歩むんだ」と感慨深く思った。同時に、これで少しだけ私の身に一身に降りかかる責任の所在も分散される、というような気持ちにもなった。

私の責任が軽くなるというよりも「共同責任になっていく」という感覚。

 

ところで、病院は当然何かしら病気とか怪我とか、そういうことへの不安からくる場所で、特に入院している場合には生死を分けるような治療の選択や選択肢のない中で決定を受け入れながら考えたり悩んだりという葛藤が生じる場所でもある。

 

幸い、親兄弟にそこまでの大きな決断に直面した人がいなかったから仕事を通して初めてそういう場面に出くわすようになった。

そして患者本人がその決断ができない時、意思決定が難しい時に家族が呼び出されて家族の考えと思いで物事を進めていくことも珍しくなくある。むしろ高齢化の進む今、そういうことの方が多くもある。

 

先日、介護保険など社会制度を全く利用せずに何年も介護してきた家族と出会った。

きっとその家族の中では「面倒を見るとはこういうこと」「お世話をするとはこことここ」ともう日常の一部で息を吸うようにそのリズムがあったのだろうと思う。

周囲から勧められても一度も社会制度を利用しようとは思わなかったという。

 

「いやとかいいとかそういうことじゃなくて、必要がないと思ったんです」と。

なるほど。

なんとかなってきたし、これからもなんとかなるっていう根拠はともかく自信があるのだろう。

 

ただ、今回の入院でできることがひとつ、ふたつと減っていてそろそろ人の手助けも借りながら生活したほうがいいのではないか、というかそうでないとほぼ安全は担保できない。

3/100程度の危険じゃなくて97/100くらいのリスクの話。

ほぼほぼ、24時間以内に転倒するだろう、そうなったら体を起こすのも困難であろう。

そういう状況が病院の中では少なくとも予測されて、そのことを率直に医師から家族に説明いただいた。

 

にもかかわらず。

家族の受け止めは「今まで通りの生活ができると思う」ということだった。

そのためにこういう方策をとる、ということはなく「なんとなく」というところで。

 

その家族の心理はなかなかすぐに理解できるものでもなく、人の考えや思い、行動はこうもさまざまで一筋縄ではいかなくて、家族の分だけ価値観がある。

そういう当然のことに気付かされる。

 

さて、どうしていくかはもう少し考えなくては。

私も考えているけどきっと家族も家族なりに考えてのことだろう。尊重したい気持ちと、病院として伝えるべきこと。そのはざまで悩む日々。