子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

認知症と転倒と拘束

病院や介護施設でこの3つが割と密接に円を描くように展開される。認知症の人は言われた端から言われたことを忘れてしまったり、言われた言葉の意味を理解し、行動に汎化させるという脳内手続が遮断されてうまくできなかったりする。

そこで生理的欲求に従って、あるいは急に気をひくものに気を取られて動き出して、転ぶことが少なくない。

だから環境調整もすごく大事だし、その人が「何に刺激されて」「何を求めて」「どういう行動を取ったのか」ということをアセスメントして、さらに調整をしていく。

ただ、施設や病院においてはその調整の中で「人の見守り」とすることには限界もある。特に夜間〜朝にかけては。

だからこの判決には本当に何度でも目を疑っている。

news.yahoo.co.jp「バカも休み休み言え」と判事には言いたいところだ。

認知症患者の転倒予見ができたことと、この判決結果との整合性のなさ。

職員が予見していながら「わざと」「あえて」離れていたなら過失となるだろうけども、今回で言うとおそらく「勝手に」トイレから出てきたのではないかと思う。

認知症でも排泄の感覚のある人は、付き添い介助でトイレに行く。だけど、排泄中までトイレ内で手伝いがいらないことも多い。

排泄中は扉を閉めて外で待機するけど、その間に別の患者さんが同じく排泄の訴えをすれば少ない人員配置の中で対応せざるを得ない。

1:1看護ではないのだから。その設定をしたのは厚労省なのだから。病院は国の基準に従って職員の配置を決めている。

そして患者さんをなるべく拘束したくないから、それぞれの生理的欲求に応えていきたいから、対応をしたのだと思う。

トイレを出る時にナースコールを押すように伝えていても押せない人は、トイレでするなと言ってるのと同義だと、この判決を出した人は気付けないのだろうか。まして「別患者はおむつで排泄すればよかった」みたいなことを宣える判事ってなんなんだろう。

じゃあ、体調不良でも尿便意催しても判事はおむつ内失禁で仕事続けるんだね??と思ったし、病院や施設の介護現場、看護現場を知らない人の判決だなと思った。

 

毎週、認知症ラウンドでいかに身体拘束を減らすか、そのために患者さんをきちんとみていく、人としての尊厳を尊重していくということに腐心しながら、患者の安全配慮にも最大限の気を配ってトライしている。

転倒までは行かなくても点滴の引きちぎりも自抜も珍しくない。

それでも、看護サイドでできることは?というのを考えている。そういう看護師さんたちをみているから、この判決は非常に遺憾だなと思った。

 

確かに患者家族からしてみたら「どうしてうちのじいちゃんが」と思うのだろうけど、認知症になるということの中に含まれるさまざまなリスクの一つには転倒がある。そういう現実も受け入れていかないといけなかったのではないか、転倒で打ちどころが悪ければ頭も打つ。

もしもこのかたが転倒して圧迫骨折して、それ自体は1年くらいで治ったけど、その後に肺炎で亡くなったとしたら、こういう裁判は起きたのだろうか。

認知症による転倒をきっかけに寝たきりや誤嚥性肺炎、さらなる認知機能低下を引き起こす高齢者は少なくない。

それも含めて私は「老い」だと思っていたけれど、そうは捉えなかったということなのか。

この判決ってかなりいろんな問題を孕んでいる。

なんだか全く解せない。今後、さらに控訴していくのかどうか、行く末が気になる。