非定型発達と通常学級
Twitterを読んでたら、なんとも言えない「現実的課題」を垣間見た。
頑張ってられる学校の先生方には申し訳ないけど
— はち (@hachio_ha) 2022年12月14日
発達障害のある児童が「授業に集中しません」「ノートを取りません」「言うことを聞きません」だからお家でもお話してみてください(言い聞かせてやれるようにして欲しい)... などと言ってくる先生って
じゃあ「うちの子が集中出来る授業をして下さい」
これすごく想像できて、我が子の姿と重なるところがある。ああ、きっと来年の今頃言われてるだろうなって。
これに対してのコメントが結構エグくて「生徒一人のせいで他の何十人が迷惑かかっている」「そうそう」みたいなのも散見され、やはりそうなるか、なるよね。と思った。
ちなみにそうした保護者の考えが存在することは理解するものの、「非定型発達が同じクラスにいることが迷惑」という発想は私自身はつゆと持っていない。
発達障害なんて言葉がない30年以上昔、同じクラスの何人かに集中力を欠いたり授業に不参加気味な子がいた。
その子はしょっちゅう怒られていて「怒られキャラ」みたいになっていた。私はなんか違うなという雑駁な違和感を持っていてよくよく観察していた。
よく注意されるその子は、先生にひどく怒られる(体罰も伴い)ととても荒れた。
そうじゃない時はすごく普通の子だった。普通って何よって感じだけど少なくともいつもナイフな感じじゃなかった。
私がそんなふうに考えていたからか、別の意味で私も担任には目をつけられていた。私をバカにするチャンスをあいつ(担任)は狙っていた。卒業の最後の瞬間まで。
思い出すとムカッとする。
今思うと、教師としてのプロフェッショナルに欠けるんじゃないかと思う。子どもの特性を見極めないのは時代のせいじゃない。
まあ、その思い出は今回ともかくとして、とかく非定型発達の子が通常級に入ることにアレルギー反応を起こす親っている。
往々にして非定型発達の子が想像を超えた展開をしてきて、それが悪い意味でハレーションを起こすことがあるからだろう。
授業妨害とか明らかな(執拗な)嫌がらせはだめなこと。だけど授業に集中してないのも、ノートが取れていないのも、「許容範囲」というのがあると思う。
「これだから非定型発達の子と同じクラスだと迷惑なんだよ」っていうのは絶対に違ってて、ノート取ってなくても教室の中で集中してお絵描きしてるかもしれないし、窓の外の雲を眺め続けているかもしれない。
でもそれって許容範囲なのではないかと思う。
娘の授業参観に行った時に、娘の保育園の同級生がやはりそんな感じで授業中、課題は取り組んでないし絵を描いたり防犯ブザーを見たり、所在なさげだった。だけどそれでも席に座ってなんとなく過ごせていて、娘に聞いてみても「ああ、そうだね」程度の認識。
それに授業参観後、私のところに来て息子のおもちゃに興味津々だったのもすごく可愛い。愛くるしい笑顔でバイバイとか言ってくれんの、本当に嬉しい。
息子がやはり非定型だから私の親のバイアスとして余計にそう思うのかもしれないけど、でも「これだから非定型発達は〜」とネガティブに話されることがマジョリティな世の中は嫌だなって思う。
その言葉は、障がい者、高齢者、子ども、女性...自分たちが気に食わないあらゆる人に向けていくんだろう。
それに、本当に大事なのは「これだから」ということでもなければ言われることを甘受することでもなく、科学的な知識を持って対応していくことだろうと思う。息子の母として息子の状態や特性を専門家によって教えてもらうことで私自身が対応法を知れる。学校の先生もまたプロとして一定の知識は持っているべきだし、今自分の仕事を考えると「知識は力なり」という部分も一定数あるなぁと思う。
知識をおろそかにすると、不安定な対応しかできなくなる。
知識は経験(症例)を通して学べることも多いし、今後もいろんなことを言う人はいるだろうけど、私は私の方法で息子を守っていかなくちゃな。
ちなみに、通常学級とかいう言い方もすごい違和感ある。